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    銀座カツミ堂写真機店
    東京都中央区銀座5-9-1
    TEL: 03-3571-0468

銀座と歩むカツミ堂ストーリー

和光や松屋、三越などの高級デパート。点在する映画館。並木通りに立ち並ぶ、世界中の高級ブランドの直営店や、テーラー、ブティック、画廊、ギャラリー。食通が足繁く通う超一流のレストランや鮨の名店、高級クラブ...。伝統とモダン漂う銀座の街並みにまぎれて、長い歴史を持つカメラ店が多く存在することもご存知だろうか。

晴海通り沿いに根を降ろす「カツミ堂写真機店」はそんなカメラ店のひとつだ。カツミ堂の前身となる萩本カメラ店が銀座にオープンしたのは、終戦したばかりの昭和20年。焼け野原の銀座のバラック街から昭和、平成へと、戦後の銀座を生き続けてきた老舗の歴史を、藤本克巳会長とともに振り返る。

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黎明期 〜戦後の銀座に始まったカメラ店〜
 
--カツミ堂はいつごろ生まれたのですか?

私の母の従兄弟にあたる萩本団治さんがね、終戦のあとすぐ、昭和20年にこの場所でカメラ店を開いたのが始まり。タレントの欽ちゃん(萩本欽一さん)の親父ですよ。戦前は御徒町でカメラ店をやっていたんだけど潰してしまってね。戦後、焼け野原の銀座に来て店をはじめたんです。昭和24年に私がその店の経営を継いだんです。

--藤本さんは経営を譲り受ける前は何をしていたのですか?

私は戦争で朝鮮に3年間出兵していたんですが、運良く終戦半年前の3月に帰国して復員になって、疎開先の広島で終戦を迎えました。私や家族は何か仕事をしなければいけなかった。でも私は24才の若僧でね、することがないんです。家のあった大阪の此花区は焼け野原でね。そんな昭和21年に大阪でばったり、団治さんに会ったんです。そこで団治さんは私に、「カメラ屋は景気がいい、お前もやったらいい」と言うんです。私は建設業をやりたかったんだけどね。私もその気になって、銀座の彼の店に3週間ぐらい見習いに来てカメラを教わったんです。

--終戦間もない銀座はどんな様子だったんでしょうか?

ここらはみんな焼け野原だったからね。戦後の銀座はバラックが建ち並んで一斉に商売を始めたって感じだった。表は進駐軍がいっぱいいましたよ。団治さんの店は2階建ての建物の1階を借りてやっていた。広さが9坪半で間口が1間半の小さな店でね。2階は美容院で。

--戦後の焼け野原じゃみんな貧しいはずなのに、カメラが売れるんですか?

戦争が終わってすぐにでも、カメラを欲しい言う人はいっぱいいたわけですよ。カメラの愛好者というのはね、クラスがいいんですよ。世の中が不景気なときも、関係なくお金を持っていてカメラを買う人はいるんです。銀座にはそういう人が集まってきていた。だから中古のカメラばっかりだったな。

--なるほど。わかる気がします。仕入れはどうしていたんですか?

店に売りに来る人もいるし、ブローカーからも買いましたね。うちの出入りのブローカーも10人ぐらいはいましたね。

--そんなにカメラが出回ってたんですね。

敗戦というのはね、それまで金持ちだった人が没落して貧乏人になったり、新興の闇屋が成金になったりということがあちこちであった。そうすると売る人と買う人があるわけです。銀座はそういう人たちが入れ替わるような場所だったから、銀座にはカメラ屋がたくさんあったんだと思う。進駐軍の連中もいい客だったしね。当時から10軒ぐらいあったんじゃないかな。

--藤本さんは神戸でカメラ屋を始めて、そちらはどうだったんですか?

いや、売れないんだなぁ。やっぱり神戸と銀座では違うんですよ。カメラだけじゃなかなか商売がうまくなくてね。それでDPE※を始めたんですよ。初めは職人さんを雇って、彼が辞めるまでの間に覚えて、家中でDPEをやった。それが利益率がいいので生活できるようになって、3年間一生懸命働いてまとまったお金を作ったんです。すると萩本団治さんが銀座の店があまり上手くいかなくなって譲りたいというので、神戸の店をたたんで東京に出てきたんですよ。彼は根っからの事業家でね、自分でダン35というカメラを作ってみたり、人を雇って卸しもやったり、いろいろと手を出しては失敗したんですね。私は銀座の店に残っているカメラの代金を払って、カツミ堂に名前を変えて、再出発したんです。

※DPE=Development, Printing, Enlargementの略。フィルム現像と引き伸ばしプリントのサービス
萩本昌之さん(萩本欽一さんの親族)











第二期 〜バラック街を賑わせる朝鮮特需〜

 
--再び訪れた銀座はいかがでしたか?

治安がすごく悪かったですよ。中央通りにも晴海通りにも露天がいっぱい出ていて、バラック街が出来ていたんですよ。和光や松屋は進駐軍のPXに取られてね。夕方5時になって暗くなったら、誰も外を通らないんです。築地警察署からは、店に泊まってはいけないという通達があったんですよ。強盗に殺されるからって。私が店を引き継ぐ前は7回窃盗に入られたそうですからね。それが昭和25年の秋ですね。

--昭和25年といえばちょうど朝鮮戦争が始まったときですね。

そう。25年の冬はあまり売れなかったんですけどね。年が明けて26年になると、いきなり好景気になってカメラが飛ぶように売れ出した。銀座では特にカメラが全然足りなくて、大阪からブローカーが夜汽車に乗って売りにくるぐらいだった。だって私が朝一番で店に来たら、もうお客さんが買いに来ているんですよ。

--どんなカメラが売れていましたか?

その頃にはぼちぼち、国産の新品のカメラも出てきましたね。僕の記憶では戦後最初にカメラを売り出したのはミノルタで、セミ判※のカメラですね。そのあとにキヤノン、ニコン、オリンパス、ペンタックスと35mmのカメラを次々に出していった。だけどやっぱり、ライカやカールツァイスのカメラにはかなわない。つくりが全然違う。国産のカメラのビスは真鍮を使っていたんだけど、ツァイスは焼きの入った鋼で締めるから、ゆるまないんだ。シャッターでも何でも、全然違う。敬服しますよ。

--でも、外国製のカメラは金額も相当高かったんじゃないですか?

高いですよ。ライカは昭和25年当時、中古の3Aズマール付で10万円していましたからね。その頃、ローライフレックスの新品も入っていたんだけど、それなんて20万近くするわけ。マミヤシックス※2が1万5千円ぐらいで、ミノルタのセミ判は5、6千円で買えた頃ですよ。そんなカメラがずいぶん売れたんですよ。私は昭和26年の春頃になってお金ができたので、港区の神谷町に35坪の平屋の家を買ったんだけど、それが45万円ぐらいだったから、ローライ2台とちょっとで東京に家が買えちゃうんですよ。神戸ではそんなにいいカメラ全然売れないんだけどね。銀座では売れた。やはり客層が全然違うんですよね。

--神戸と銀座じゃそんなに違いましたか?

違いますよ。東京はなんてカメラが簡単に売れるんだろうってびっくりしましたから。「お前の店は高い」って言うお客さんなんていないんです。フィルムだって「幾ら」と聞かれて、「280円です」って言えばそのままぱっと買ってしまう。ブローニーのモノクロフィルムだったんだけど、当時定価で120円ぐらいだったけど、そんな値段じゃ手に入らない時代だったからね。でも神戸じゃ280円って言ったら「高いから負けろ」と怒られますよ。東京ではカラーフィルムだって売れた。1本1000円でも売れるんですからね。

--今よりも全然高いじゃないですか。そば一杯幾らの時代ですか?

かけそば一杯15円か20円の時代ですからね。今で考えればフィルム一本1万とか2万とかって感覚ですよ。それがね、カラーフィルムが大阪に行くと安く売ってるんです。私は時々大阪にカメラを仕入れに行ってたんだけど、一緒にカラーフィルム20本、30本買って帰ったらね、そのフィルムだけで汽車賃から宿泊費から全部出ましたからね。

※セミ判=撮影サイズが6cm×4.5cmの中判カメラの通称。
※マミヤシックス=1940年にI型という初期モデルが発売されたマミヤ社製の6×6中判カメラ。レンジファインダー、蛇腹式レンズの独特なデザイン。











第三期 〜東京オリンピック、そして今〜

 
--バラック街だった銀座は、いつごろから復興していったのですか?

昭和20年代の後半からバラックや露店が減って、徐々にビルが建つようになっていったんですけどね。カツミ堂も昭和30年にコンクリートのビルに建て替えましたからね。はっきりと変わったのは昭和39年の東京オリンピックですよ。それにあわせて銀座もどんどん変わっていったね。

--その影響はカメラの売上にもありましたか?

すごく売れましたよ。とくに外国人。日本はやはりカメラ王国ですからね。その頃にはキヤノンもニコンもどこも素晴らしいカメラを作っていましたから。世界中から集まったオリンピック選手も、海外から日本に応援に来た人も、とにかく安いというので、押し寄せるようにやってきてカメラを買っていきましたよ。

--外国人はなぜカツミ堂の存在を知ってるんでしょうか。

なぜでしょうか。人づてで伝わるんでしょうかね。今も外国人の方はよく来られますよ。有り難いことです。

--カツミ堂は今も本当にいいお客様が多いですよね。今のカツミ堂を見ていても、ボディもレンズもライカの品揃えがずば抜けて凄いですけれども、やはりライカには特別な思い入れが?

それはありますよ。ライカが売れたから今の私がある。ライカがあってこそのカツミ堂なんですよね。有り難いものですよ。

当社のライカへのこだわりはね、とにかく状態のいいものを揃えているということです。うちには戦前のカメラもたくさんありますが、とても奇麗な状態のものが多いんです。「欲しいカメラがある」、「欲しいレンズがある」、という人がうちに探しにきて、「凄く奇麗な状態のものが見つかった」と喜んで買って帰る方が多いんですよ。多少高くても、満足して買っていかれるんです。

--いい状態のカメラやレンズを扱うためには・・・

いい状態のものには、きちんと評価したお金を支払って仕入れることです。それですぐ売れるわけじゃないんですけどね。しかしそうすることによって、コレクターも写真家もブローカーも、いい状態のものをカツミ堂に持ってこられるようになると思うんですよ。うちは状態の悪いものを安く買って安く売るよりも、状態のいいものを高く買って、それなりの値段でお売りする。状態の悪いものはきちんとその説明をして、それでも欲しいと納得してもらって始めてお売りする。そうしたことによって顧客の信頼を得ることが、大事じゃないでしょうか。

--なるほど。では、カツミ堂がお客様に伝えたいカメラの魅力は?

ここ何年かで急速にデジタルカメラの時代になってしまいましたけれども。私は銀塩カメラ(フィルムカメラ)をいつまでも多くの人に使って欲しいと思います。デジタルカメラって電子機器みたいなものでね、私が半世紀以上扱ってきたカメラはそれとは全く違う魅力がある。カメラは精密機械なんです。名機と呼ばれるような超一流の精密機械は、見た目の美しさも存在感も、シャッターを切ったときの操作性やその心地よさみたいなものも、全く違う。それは絶対にデジカメでは味わえない魅力なんです。それに銀塩カメラは、ファインダーを覗いてシャッターを切って、現像が上がってくるまでの緊張感や、上手く撮れていればいいなという期待感とか、いろんな感情があるから面白いとおもうんですよ。

今はデジカメの時代ですが、精密機械としてのカメラ、銀塩カメラの魅力を、いずれ再確認する時代が来て欲しい。そのときにまた、若い人でも、愛好される方がまた増えて欲しいと思うんです。










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