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銀座カツミ堂写真機店
銀座と歩むカツミ堂ストーリー銀座と歩むカツミ堂ストーリー

和光や松屋、三越などの高級デパート。点在する映画館。並木通りに立ち並ぶ、世界中の高級ブランドの直営店や、テーラー、ブティック、画廊、ギャラリー。食通が足繁く通う超一流のレストランや鮨の名店、高級クラブ...。伝統とモダン漂う銀座の街並みにまぎれて、長い歴史を持つカメラ店が多く存在することもご存知だろうか。

晴海通り沿いに根を降ろす「カツミ堂写真機店」はそんなカメラ店のひとつだ。カツミ堂の前身となる萩本カメラ店が銀座にオープンしたのは、終戦したばかりの昭和20年。焼け野原の銀座のバラック街から昭和、平成へと、戦後の銀座を生き続けてきた老舗の歴史を、藤本克巳会長とともに振り返る。

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黎明期 〜戦後の銀座に始まったカメラ店〜

--カツミ堂はいつごろ生まれたのですか?

私の母の従兄弟にあたる萩本団治さんがね、終戦のあとすぐ、昭和20年にこの場所でカメラ店を開いたのが始まり。タレントの欽ちゃん(萩本欽一さん)の親父ですよ。戦前は御徒町でカメラ店をやっていたんだけど潰してしまってね。戦後、焼け野原の銀座に来て店をはじめたんです。昭和24年に私がその店の経営を継いだんです。

--藤本さんは経営を譲り受ける前は何をしていたのですか?

私は戦争で朝鮮に3年間出兵していたんですが、運良く終戦半年前の3月に帰国して復員になって、疎開先の広島で終戦を迎えました。私や家族は何か仕事をしなければいけなかった。でも私は24才の若僧でね、することがないんです。家のあった大阪の此花区は焼け野原でね。そんな昭和21年に大阪でばったり、団治さんに会ったんです。そこで団治さんは私に、「カメラ屋は景気がいい、お前もやったらいい」と言うんです。私は建設業をやりたかったんだけどね。私もその気になって、銀座の彼の店に3週間ぐらい見習いに来てカメラを教わったんです。

--終戦間もない銀座はどんな様子だったんでしょうか?

ここらはみんな焼け野原だったからね。戦後の銀座はバラックが建ち並んで一斉に商売を始めたって感じだった。表は進駐軍がいっぱいいましたよ。団治さんの店は2階建ての建物の1階を借りてやっていた。広さが9坪半で間口が1間半の小さな店でね。2階は美容院で。

--戦後の焼け野原じゃみんな貧しいはずなのに、カメラが売れるんですか?

戦争が終わってすぐにでも、カメラを欲しい言う人はいっぱいいたわけですよ。カメラの愛好者というのはね、クラスがいいんですよ。世の中が不景気なときも、関係なくお金を持っていてカメラを買う人はいるんです。銀座にはそういう人が集まってきていた。だから中古のカメラばっかりだったな。

--なるほど。わかる気がします。仕入れはどうしていたんですか?

店に売りに来る人もいるし、ブローカーからも買いましたね。うちの出入りのブローカーも10人ぐらいはいましたね。

--そんなにカメラが出回ってたんですね。

敗戦というのはね、それまで金持ちだった人が没落して貧乏人になったり、新興の闇屋が成金になったりということがあちこちであった。そうすると売る人と買う人があるわけです。銀座はそういう人たちが入れ替わるような場所だったから、銀座にはカメラ屋がたくさんあったんだと思う。進駐軍の連中もいい客だったしね。当時から10軒ぐらいあったんじゃないかな。

--藤本さんは神戸でカメラ屋を始めて、そちらはどうだったんですか?

いや、売れないんだなぁ。やっぱり神戸と銀座では違うんですよ。カメラだけじゃなかなか商売がうまくなくてね。それでDPE※を始めたんですよ。初めは職人さんを雇って、彼が辞めるまでの間に覚えて、家中でDPEをやった。それが利益率がいいので生活できるようになって、3年間一生懸命働いてまとまったお金を作ったんです。すると萩本団治さんが銀座の店があまり上手くいかなくなって譲りたいというので、神戸の店をたたんで東京に出てきたんですよ。彼は根っからの事業家でね、自分でダン35というカメラを作ってみたり、人を雇って卸しもやったり、いろいろと手を出しては失敗したんですね。私は銀座の店に残っているカメラの代金を払って、カツミ堂に名前を変えて、再出発したんです。

※DPE=Development, Printing, Enlargementの略。フィルム現像と引き伸ばしプリントのサービス

萩本昌之さん(萩本欽一さんの親族)











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