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    銀座カツミ堂写真機店
    東京都中央区銀座5-9-1
    TEL: 03-3571-0468

初めてのライカ

銀座カツミ堂写真機店でも数多くのライカを取り揃えているが、初めてライカを知る人にとっては「とても高価そう」とか「近寄りがたい」といったイメージがあるのも事実であろう。しかし、ライカにはその価格に見合うだけの価値がある。ひょっとするとあなたの生涯のパートナーになるかもしれない。ここではライカに興味を持ちこれから手にする方向けにライカの魅力と特徴をお伝えしたい。

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ライカに出会うまで

僕がライカを初めて手に入れたのは32才の頃だ。当時僕は、イギリス、ロンドンに住んでいて、写真家としてなんとか自立出来始めた時代だった。

それまでの僕の写真人生はニコン一辺倒だった。写真を始めたのは中学2年生の時。高校に入る春休み、大分無理をしてニコンFを買った。1966年、東京オリンピックが開かれた2年後のことだ。写真雑誌にライカの広告が載っていたがピンとこなかった。ニコンFでさえ、キヤノンやペンタックス、ミノルタに比べると倍近く高かったのに、ライカの値段は桁はずれだった。「こんな高いカメラ、しかも接写するにも不便だし、超望遠レンズも使えない。どこかきゃしゃな感じもする・・・。」
正直なライカの感想は、ただ高くて使いにくそうなカメラ、という程度だった。

23才の時、写真家になりたくて、ロンドンに渡った。その理由は、無理矢理就職をするより、24時間、写真のことを考えて、写真のためだけに集中出来る時間を過ごしたかったからだ。半年の滞在のつもりだった。ニコンFを2台、ニコンSPを1台持っていった。

イギリスに着いたとたん、日本には決してない、すぐにでも撮りたくなる様な被写体がいたるところにころがっていた。子供は公園で近づく秋の西日を受け天使の様に輝いていたし、ストリートを歩く若い女の子の多くは、足が長く、表情も豊かで、日本に来ればすぐにモデルにでもなれる容姿をもっていた。おじいさんやおばあさんは、長い人生の中でふとため息をつき、道端で遠くを眺めていた。こうした人々のなにげない日常の一つ一つがドラマチックで、背景の美しい街並みをバックに、まるで舞台の登場人物の様に生き生きと、存在感を示していた。

写真家の卵だった僕は、そうした心に余裕を持った美しい人々や澄んだ空気に包まれ、日本にいた時より何倍も生きていることを実感した。その結果、感覚を研ぎ澄ますことができたのは幸運そのものだった。

写真で何を表現したいかというテーマは、写真を始めた中学2年生の頃にすでに決まっていた。人の心を清くし、人が人を好きになるような写真を撮りたかったのだ。
そうすれば世の中はもっと優しく平穏になるんじゃないかと想像していた。
いわば僕の写真のテーマは、世界を平和にすることだった。

日本を発って2年が過ぎたある日、ロンドンのとある写真ギャラリーでイギリス人の僕と同世代の、つまり20代半ばの写真家2人と知り合いになった。2人は、すぐに僕を彼等の住んでいるテムズ川にほど近い、大きな倉庫に招待してくれた。そこで彼等の仲間を何人も紹介してくれたのである。

話を聞くと、彼等は3年後の大きな写真展の開催を目指して集められた精鋭の若手写真家グループだった。10名ほどの写真家と、40代半ばにさしかかったドイツ人のヨーガンというディレクターが1人いた。
彼らにはスポンサーが付いていて、そのスポンサーが倉庫の家賃、フィルム、印画紙など写真展にかかる全ての経費を賄っていた。
僕は彼等に、それまでイギリスで撮った何十枚かのプリントを預け、その場を辞し、翌週再び彼らの元を訪ねた。

するとヨーガンから信じられない言葉が僕に発せられた。

「君の写真を全員で見せてもらったよ。人間の生きる姿を誠実に写している君の写真は、まさにわれわれが写真展に望んでいるそのものなんだ。どうかね、君も僕たちの仲間に入って一緒に写真展を目指さないか?この倉庫に今日から君も住んだっていいんだ。」

僕は一瞬、耳を疑った。たった独りぼっちで、しかも、経済的にギリギリのところでかろうじて写真を続けていた僕にとっては、天からの恵みのようにありがたい彼らの裁量だった。「よろしくお願いします」と頭を下げ、僕は唯一の日本人として、彼らの仲間入りを果たした。

その彼等が全員例外なくライカを使っていた。少々小ぶりのライカは大柄な西洋人の胸や肩に実にコンパクトに、小気味良く光り輝き、独特のオーラを放っていた。僕は依然ニコンで写真を撮っていたが、彼等を見ていると、ライカとは一体何だろう、という疑問が沸いてきた。一度彼らの一人のライカを使わせてもらった。ライカM3にズミクロン50ミリの標準レンズが付いていた。撮らせていただいた被写体は、日本からの初の海外公演を果たした歌舞伎俳優、市川猿之助さんだった。市川さんが滞在中のドキュメントを僕が撮る仕事をいただいていたのだ。ライカM3で撮ったフィルムをすぐに現像し、プリントした。キャビネという小さな印刷紙だったが、何かがこれまでの僕のプリントと違っていた。
何だろう、この違いは・・・?」僕は穴の開く程、そのプリントを眺めた。あることに気がついた。質感が違うのである。ただシャープというのではない。ライカで撮った写真には、「ものらしさ」までが写っていた。つまり、人間の肌は肌らしく、洋服の布は布らしく、建物の壁は硬質のコンクリートの、いわば手ざわりが正直に表現されていたのだ。この違いに僕は、仲間達が何故ライカを使うのかが少しわかった様な気がした。ものがものらしく写る。これはすごく大きな魅力だとそのとき思った。

僕もいつかはライカを使ってみたい。もうその時、僕はすでにライカのとりこになっていたのかも知れなかった。しかし、日本から持参したカメラを全部売ってもライカを一台買うのには充分ではなかった。

ハービー・山口 HERBIE Yamaguchi

写真家。
1950年東京生まれ。

東京経済大学卒業後、渡英。

帰国後もヨーロッパと日本を往復し、アーティストから巷の人々までを、気取りのない優しい表現のモノクローム作品に残している。

その清楚な作風を好むファンは数多い。

また、福山雅治、桑田佳祐、松任谷由実、等数々のCDジャケットや写真集を手がける。

写真家意外にも、エッセイの執筆、ラジオDJなど、写真家のジャンルを越え幅広い活動で人気を得ている。

写真集・写真展 多数
2月1日〜3月29日まで目黒のブリッツ・ギャラリーで写真展を開いております。
http://www.artphoto-site.com/gallery.html

オフィシャルサイト
http://www.herbie-yamaguchi.com/


ライカを知ってみよう

ライカに魅了された

半年のイギリス滞在の当初の計画が1年、2年と延び、ついに4回目の春をロンドンで迎えていた。中、僕達の住んでいる倉庫にチェコ出身の写真家、ジョセフ・クーデルカが遊びに来て一晩泊っていった。彼はすでに何度かここに来たことがあった。彼はある時は、ライカM4のブラックペイントを2台、首からさげ、胸のところで2台がガチャガチャと音をたて、ある時はライカM3をやはり2台首からさげて登場した。彼はフランスの有名な写真エージェンシー、「マグナム」の会員で、世界で活躍している写真家の一人だった。「彼もいつもライカだ。何故?」僕は何故ライカを使うのか彼に尋ねてみた。「大きさ、ストレスのないファイダーの見え方、信頼性、ライカは僕の様に旅をしながら人間を撮る写真家には最も気持ち良く使えるカメラなんだよ・・・。君はこれまでずっとニコンでよい写真をたくさん撮ってきたんだから、このまま撮り続ければよいのさ。」ニコンを使い続けるという選択もあったが、僕のライカ熱はこうした世界一流の写真家の言葉を聞き、ますます高揚していった。

僕のロンドン滞在は何と8年目を迎えてしまった。それ程、ロンドン、又はヨーロッパには写真家を引きつけてやまない人間くささと国土の美しさが両立していたのだ。僕は日本にはもう帰りたくなかった。

1982年、日本のファッション誌から仕事が来た。ギャラが35万円だった。そのお金がロンドンの銀行に入金されるや、僕は全てを引き出し、ライカの中古店に走った。ブライトンにあるホブカメラという店だ。そこで、ブラッククロームのライカM4とズミクロンの35ミリを手に入れた。あれ程欲しかったライカがついに僕の手の中に入ったのだ。32才。僕が日本を発って9年が過ぎていた。

手に入れた嬉しさは、想像をはるかに超えていた。食事とお風呂に入る時だけ首からはずし、その他の時は常に僕の手の中か、胸からライカはぶら下がっていた。

初めての、つまり一本目のフィルムはロンドンの若者で賑わうケンジントン・マーケットという、おしゃれなファッション街のスナップを撮った。すぐに気付いたが、ライカだと人々が写真に撮られていることをあまり気にしなかった。カメラのサイズが小型だからだろうか、アマチュア的に見えるのか、人々は皆自然体のままだった。そして次に気付いたことがあった。それは、シャッター音の耳への感触だった。特に1/60秒で切った時のシャッター音が、内にこもる様な、コトリッという実につつましやかな音を奏でるのだ。カメラを構えると必然的に耳元でこの音が聞こえる。金属と金属が触れ合ったり摩擦を起こしたりして発する鋭い音とは対称的な、メカが静かにいたわりながら発する優しい作動音だった。シャッターを押すたびに僕はこの作動音のとりこになった。この音がもう一度聞きたいからもう一枚写真を撮る、といった気持ちにさえなった。

一本目を現像し、プリントするとやはり、かつて友人から借りたレンズと同じような質感に満ちた画像が印刷紙の上に結像されていた。

32才でやっと買えたライカだ。この感激をいつまでも忘れず、写真を撮り続けられたら僕の人生はどんなに幸せだろうかと想像してみた。

そして、一か月が過ぎ、何枚かの気に入ったプリントが机の上に並べられた。その時思った。「そうだ、人の人生がこのカメラによって撮れるんだ。いままでは人生よりむしろ表面的なモノを撮っていたんだ。これからはこのライカで僕と被写体の両方の人生を一枚の写真の中に写し込めることが出来るだろう。」

そんなことを大げさではなくしみじみと感じたのである。

もちろん、ライカでなくても、人生を撮れると思う。僕のロンドンの初期のニコンによる写真も、やはり人生を撮っている。しかし、ライカを手にしたことで人生がファインダーの中に、より鮮明に浮かび上がってきた気がした。

世界の名だたる写真家の多くが使ったライカ、愛したライカ。きっとライカはその創生期から現代まで、写真家の心に勇気と優しさを与え続けてきたカメラではないだろうか。


※銀座カツミ堂で取り扱っている商品になります

ライカを知ってみよう
現在

結局、僕のイギリス滞在は一度も日本に帰ることなく10年近くとなってしまった。その間、広い世界を見、心ゆくまで写真に接したことで僕は23才の出発時より何倍も大きな人間となって日本に戻ってきた。

イギリスでの10年がなかったら、今の僕はいないと思う。様々な人と触れ、様々なものにレンズを向けることで、人間としてまた写真家としての礎が養われたのだ。

日本に帰ってからも、僕のライカへの想いは増々熱くなっていった。そこで初めて知ったのだが、今の日本には優秀な中古のライカが世界から数多く集まってきているのだ。新製品から使いこまれたものまで実に多くの選択肢がある。ライカファンにとって天国の様な国が日本なのである。そうした中で僕は同じ50ミリや35ミリでもライカ製の様々な種類のレンズを手に入れて使ってみた。製造された年代や開放値、レンズ構成の違いによって多種類のレンズが存在する。その一つ一つが違った描写をするのだ。例えばピントが合ったところの微妙な質感の違い。また、背景のボケ味の印象の違いなどだ。
それぞれのレンズは作られた時代の最高の性能を誇っていたが、その時代では修正しきれない収差があった。それはいわば欠点だが、その欠点が功を奏し、レンズの個性や味となって現代でも受け入れ、評価されているのだ。

僕は5〜6種類の50ミリや35ミリを持っているが、外見の違い、描写の違いなどがあるので使いわけることで飽きることは決してない。さらにボディもM4、M3、M6、現行品のMPと序々に増えていった。このボディも一つ一つの特徴があるので自分の手に馴じみ易いのを探していくうちに増えていってしまった。ライカの魅力の一つが、ものによっては30年前、40年前、50年前、さらにもっと古いものまでが現在でも修理が可能ということだ。世界を見渡しても古いライカが最良のコンディションによみがえる。そうした工業製品は他にそうあるものではないだろう。

現在僕の仕事の主流はデジタルである。クライアントがすぐに結果を見て、安心したがるからだ。もちろん、撮影者である僕も安心できる。しかし、カメラバッグにはいつも最低一台のライカを忍ばせておいて、「これぞ」という場面ではライカを取り出すのである。そのライカにはモノクロフィルムが詰めてある。ライカとモノクロフィルム、時に40年、50年、それ以上前に造られたカメラとレンズによって、現代のフィルムを使い、2008年を写す。これはとても大きなロマンであり、同時に半世紀という膨大な時間の流れの中に身を委ねた不思議な快感でもあるだ。フィルムが手に入る限り、僕にとって最もモチベーションの上るは、ライカとフィルムの組み合わせである。

今、写真を続けてきて良かった、ライカに出会って良かったとつくづく思う。ライカは道具という範ちゅうを超え、写真家に生きる喜びと勇気を与えてくれる力強い存在だと確信している。

中学2年の頃思い描いていた「世界を平和にしたい」という僕の写真への熱い思いは、現在も揺らぐことなく続いている。

ハービー・山口

※銀座カツミ堂で取り扱っている商品になります

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